土師窯について

~土師部ゆかりの地と土師窯~

炎を上げる割竹型連房式登り窯

日本書紀によると、第11代 垂仁天皇の時代に、出雲国 野見宿弥が朝廷の命により土師職(はじつかさ)となり、古墳に立てる埴輪や土器を造り、葬送儀礼を司ったとされています。

後に、曾孫の身臣は、第16代 仁徳天皇より土師姓を与えられます。その陶工や、儀礼職に従事した人たちを「土師部」(はじべ)といい、北部九州から関東地方まで、各地に派遣されました。諸所での土師部たちは、一年間に定められたやきものを貢納する他、庶民が必要な日用品の制作も行いました。



桂川町で見つかった土師器甕(かめ)。表面の煤は焼成時に付着したもの

奈良時代のはじめに郷里制(715~740年頃まで行われた地方行政制度)が施行され、土師部の居住した所は土師郷となります。平安時代中期に作られた辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)には、現在の福岡県嘉穂郡桂川町土師の一帯を指す「筑前国穂浪郡土師郷」の記載があり、古代の窯業生産地であった桂川町の姿が浮かび上がってきます。



桂川町で出土した土師器の日常食器。米を蒸す甑(こしき)や椀など

この地に派遣された土師部らの足跡を今に伝えるのが、桂川町が誇る文化財で、昭和27年に国の特別史跡に指定された前方後円墳「王塚古墳」(嘉穂郡桂川町寿命)です。この王塚古墳の前室からは、古墳時代の代表的な土器である「土師器」(はじき)が発見されました。

土師器は、日本列島固有の特徴を色濃く残す土器です。紐状の粘土を積み上げる「紐づくり」の技法によって作られており、古墳の祭祀で使われる埴輪をはじめ、坏や皿、高坏(たかつき)、椀、甑(こしき/米を蒸すための土器)などの日常食器も数多く生産されました。その種々の土師器からは、弥生式土器の感覚を受け継ぐ軽妙かつ知的な造形が見て取れます。



開窯時の土師窯全景。昭和22年頃

土師窯は、歴史ある土師部ゆかりの地にて築窯し、この地に息づく古器の歴史に思いを致しながら作陶に取り組んでいます。弊窯では、昔から伝わる紐づくりの技法や、蹴ロクロを用いて、茶席に用いる茶陶器をはじめ、食卓を彩る日常使いの食器を制作しています。